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代表者ごあいさつ

東京湾を中心に港湾運送・通関・流通加工から全国配送まで

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当社は、1949年5月、東京都港区に本社を設立、船内荷役業者として発足し、その後、京浜港、千葉港において総合的な港湾運送業者となりました。
戦後、日本の急速な復興とともに増大した海上運送貨物の流通拠点として発展してきた港湾において、当社は確実に企業規模を拡大し「安全に・確実に・迅速に」をモットーに、多様化されるニーズにお応えすべく「人の和」を尊重し、安心して大切な荷物をお任せいただける港湾業者となるよう努力してまいりました。おかげさまで顧客の皆様より厚い信頼をいただいております。
さらに、当社は、臨海副都心地域における倉庫建設等、港湾における企業規模の拡大を図る一方、経営の多角化、安定化をめざし、目まぐるしく変化する内外の経済情勢に対応すべく全社一丸となって努力いたしていく所存です。

何卒、一層のご愛顧とご指導を賜りますようお願い申し上げます。

「東京港とともに50年」

鶴岡元秀
 
 職業とは、ある意味でいえば因果なものです。親父が芝浦で港湾運送の事業を営んでいた関係で、学生時代からこの地に馴染み、学校を卒業するといつとはなしにその後を継いで、ずっと今日に至っています。昨秋、都の港湾局が「東京港50年史」という大部な書を発刊しました。そこに一文をと請われ、柄にもないと固辞したのですが、50年前からの東京港の姿を身近に知る人は今や数少ないのだからとせまられ、断り切れませんでした。
言われてみて周りを振り返ってみると、あの戦後の激動の時代を経て今日まで変わらずやっている人はなるほど珍しく、いつの間にか業界最古参の部に属するようになっていました。50年とはそういうことであったのか。今更のようにその歴史の重さに粛然たる思いがしている次第です。
 私の入社当時の芝浦というのはまだ終戦直後で、米軍がこの港のほとんど全部を接収管理していました。戦時統制がまだ完全には解除されていない中で、海運業には船舶運営会という統制機関が残っており、船舶の運航は全部そこが統轄していました。昭和24、25年ごろの芝浦は一週間に1隻か2隻の船しか入りません。当時の東京港は、横浜、神戸と違って港の規模も小さいし、あまり外航船の入港する港ではなく、内航船だけの港でした。戦後しだいに外国貿易の輸入もみられるようになりましたが、輸出は何といっても横浜、神戸。東京港に輸出が急増していったのは、昭和40年代後半の大井コンテナ埠頭の出現以降で、それまでは全くの輸入港でした。ただ、朝鮮戦争の米軍特需貨物が横浜だけでは賄い切れず、東京港へ流入、その時はじめて東京の業者は1万トンを積卸するという大型外航船舶の荷役を経験したわけです。当時、岸壁は全部米軍によって接収されていましたので、殆どの荷役は沖荷役(ブイに係留されている本船への貨物の積卸)によって行われていたので、艀による輸送が中心でした。
 コンテナ化とローロー船(トラックごと船内に入って積卸する)の出現によって荷役形態が一変し、急速に機械化・効率化していくのは、東京鉄鋼埠頭(東京都、新日鉄等による合弁会社)の完成以降ずっとあとのことです(中でも原木の荷役だけは十年一日の如くです)。その辺りからが国際貿易港東京港の始まりだったわけです。
 いま、東京港の港湾労働者は常用で船内、沿岸、艀を含めて約5、500名、昭和40年代前半の最盛期が1万名といわれたのですから、ずいぶん省力化されたわけです。雇用形態も激変しました。かつては常用25に対して日雇75という時代もありましたが、港湾労働法の施行以来比率は逆転し、現在では95対5くらいになっています。当時の芝浦の環境は今の芝浦とは全くちがっていたので、例えば銀行などでも芝浦支店という名前をつけたがらず、女子社員の採用には難渋したものです。企業経営の苦楽やそこで働く港湾労働者の労働実態とその気質などについては、とても一日にしては論じ難いものがあります。いま、私にはその紙幅がありません。
 六年前、私は息子と数ヶ月にわたって激論を闘わす羽目となりました。いわゆるロフト文化という代物をめぐってです。ある日息子が突然、親父、倉庫でライヴハウスをやろうよと言い出したのです。当時、私はライヴハウスの何たるものかさえ知りませんでした。芝浦へなんか人間がどうやって来るんだ、来るわけないだろう。いや来る。絶対くると親子の激突です。いろいろ聞いてみると大した資本の要ることでもなさそう、その程度の損失で済むことならと私は息子の勢いに屈服しました。「インクステック芝浦」、「レストランベニス」の始まりです。ウォーターフロントブームに乗っかって3年くらいはまさに私の予想は完全に裏切られ、景気よくやっていたようですが、今ではすっかり下火になりました。当初から、こういうものは3年周期だと言われていましたが、その通りになってしまいました。一時は芝浦という地名が六本木、銀座と同様にイメージアップされもしましたが、今はもうそれほどの勢いはありません。当節、世の変遷はまことにめまぐるしいものです。
 これから先さらに50年、東京港の姿はどのように変るのでしょうか。そこに働く人人の生活や港湾社会の歴史はどのような発展を辿るのでしょうか。にわかに予見すべくもありません。ただ港湾荷役の面からいえば、東京港はもうすっかりその姿を変え、中心は青海とか10号とか大井の埠頭へと移りつつあります。日の出岸壁だって将来は脱港湾地帯になるはずですから、この芝浦岸壁の先にしか港湾地帯がなくなってきます。時代の流れというものでしょう。だが、私にとっての芝浦は心のふる里です。多摩の小平、国立が学生としての私の聖地であるように、ここ芝浦には社会人としての私の青春と、それに引き続くわが人生50年の哀歓がいまなお息吹いています。      (1995年1月記)

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